【教授の背中】理論と実践の往復で「人」をみつめる 人間福祉学部・池埜聡教授

教授の背中

 淀屋橋駅の3番出口。27歳の秋、階段を上がる途中の踊り場で、突然決意した。「アメリカに行こう」。いわば“エピファニー“(啓示)。今でも踊り場の壁の色すら覚えているほど鮮明な記憶だという。現在人間福祉学部で教鞭を執る(いけ)()聡教授にとって、それは大きな転機だった。

 池埜教授が社会福祉の道を志した原点は高校時代にさかのぼる。母が視覚障害者支援に携わり、父は企業に勤めず自営業を営んでいた。そのため、高度経済成長期の「一流企業に入ることが大切」という価値観に染まることはなかった。「弱い立場に置かれた人の力になりたい」と漠然と考えていた。

 高校1年生の終わりのある日、衝動的に家を出て特急電車に乗り、終点まで行った。「ただフラッと家を出て、電車に乗ってしまった。親との喧嘩も何もない。ただ自分を見つめたかったんでしょうね」。

 帰れなくなり親に迎えに来てもらうという、ある種の「失敗」に終わった一人旅。しかし、その帰路で「養護学校の先生になろう」と直感した。唐突で、しかし確かな身体的感覚だった。

 その感覚に従い、アポイントも取らずに養護学校へ見学に赴いた。学校側は驚きながらも受け入れてくれた。現場を目の当たりにし、「この道に行こう」と心を固めた。

 しかし、視覚障害者の支援をしていた母は猛反対した。「あなたには無理だ」という言葉に、「自分も活動しているのに矛盾している」と憤り、2カ月間口をきかなかった。それでも、むしろ母との対立は「絶対にこの道に進んでやる」と決意を強くした。

 進路を方向づけたのは、高校時代の先輩から「社会福祉学」という学問の存在を教えられたことだった。進学したのは関西学院大学社会学部。当時はまだ社会福祉が独立した学部ではなく、社会学部の一専攻だった。世間では「経済・商・法」が花形とされた時代で、男性が社会学部へ進むことに周囲から反対された。しかし、「学びたいことがある」という思いは揺らがなかった。

 大学での決定的な転機は武田建先生(関西学院大学名誉教授、元理事長、元学長)との出会いであった。

 武田先生と立ち話をしていたとき、「社会福祉にはいろんな分野がある。お前はどこを勉強したいんや?」と問われた。「まだわかりません」と答えると、「その真ん中にあるのは何やと思う?…それは人や。まず人を勉強せなあかん」。その言葉に感動し、武田ゼミに入った。ゼミでは、精神分析や心理学的アプローチから人間を理解することを学んだ。

 しかし、大学時代の児童相談所の実習で、最初の大きな壁にぶつかる。現場ではまだ制度や手法が十分に整っておらず、落胆した。児童相談所に来る子供たちに対して「この子たちを何とかしたい」という期待を抱き、それがすぐにはかなわない現場に戸惑った。一方、「このままの自分では現場に出ても何もできない」と過酷な現場に飛び込む勇気のなさを痛感した。

 知識や技術、人間性を磨こうという気持ちもありつつ、「半分は落胆、半分は勇気がなかったから大学院に行った」と語る。

 大学院時代に実習を行った家族療法専門の精神科クリニックに、修士2年次から勤務し、働きながら大学院に通った。修士課程修了後も引き続き勤務した。しかし、27歳のときに次世代を指導するように言われ、悶々とした日々を過ごす。

 当時は人に教えるより、もっと勉強して経験を積みたいという思いが強かった。同時に、武田先生がアメリカ流のスタイルだったことから以前からアメリカ留学への思いも抱いていた。このままでいいのかと自問することが続き、悩んだ末、淀屋橋駅で突然アメリカに行くことを決意した。

 職場では猛反対されたが、武田先生の後押しもあり決意から半年後、28歳の手前でワシントン大学セントルイス校の修士課程に進んだ。慣れない英語や寒冷性の蕁麻疹に苦しみながら臨床を学んだ。

 実習先は東南アジア系難民のメンタルヘルスを支援するクリニックだった。そこでは貧困と差別、不条理が渦巻いており、自分が生きてきた世界がいかに狭いかを痛感した。凄まじいトラウマを抱え沈黙を続ける難民の人々の前では、今まで学んだ技術が一切通用しなかった。「鼻をへし折られたどころか、地面に叩きつけられた」と振り返る。

 二つ目の修士号を取得後、引き続きそのクリニックに2年間勤務した。主に難民家族の子供を支援する中で「やはりもう一度勉強する必要がある」と考え、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の博士課程に進んだ。

 博士課程中、一時帰国した際、自宅で阪神・淡路大震災に遭遇した。家族と家は無事だった。しかし、アメリカに帰った後にPTSD症状に苦しんだ。本が読めない、眠れない、涙が止まらない。さらに母を突然死で亡くした。この経験から、個人として、実践者として、研究者として、トラウマが大きなテーマとなった。

 当時の日本のトラウマ研究は、精神科医による「疾患(PTSD)」としての枠組みが主流であった。しかし、トラウマは「心」だけの問題ではない。身体、人間関係、これまでの人生の歩み、これから生きていくための土台もすべて壊す。そして、被災地での生活、その中での様々な不条理、あるいはその中で出会った人々の優しさ。それらをすべて含めて、その人の回復がある。

 そのため、「心」だけに焦点を当てると、個人の内面の問題だけに矮小化され、その人が置かれている社会や環境の要因を無視してしまう。ソーシャルワークでは、精神医学や心理学、心理療法だけに依拠しない。トラウマを社会的な文脈の中で起きてくるものとして、環境の中の人間をみる。人を全人的に捉えることが重要だという。

 池埜教授は学生によく、「クライアントをかわいそうな被害者としてだけで見ないように」と説く。クライアントは過酷な状況を生き抜くサバイバーであり、レジリエンスを持った存在なのだと。

 レジリエンスは竹に例えられる。強い風でしなっても、折れずに戻る。その風を経験したことで、より根が深く張ったり筋が強くなったりする。しかし竹の力だけではなく、土壌を耕すこと、つまり社会的な支援や環境調整も重要である。

 環境や社会によってレジリエンスは引き出されることも押しつぶされることもある。だからこそ、個人を見ると同時に社会を見ることが必要になってくる。「これがソーシャルワークの醍醐味であり、難しさでもある」と池埜教授は力を込める。

 最後にこう問いかける。「『こころ』はどこにあると思いますか?」多くの人は胸を指す。宝石のようなきれいな「心」が核としてあると思い、探すかもしれない。

 しかし池埜教授は、胸や頭にあるものではないと考える。「『こころ』は、これまでの自分や人とのつながりの中にある。そして同時に、流動的で絶えず変化している。『今、この瞬間』の対話や空間を大事にしないと、『こころ』はみえない」。

 ラオスのモン族が難民体験を表した刺繍。言葉にならない痛みを表現する行為は再生のプロセスの一形態のように思われる。「人」を中心に見据え、理論と実践を往復しながら、人が自らの人生の主人公として生きていく過程を支える。それが池埜教授の体現するソーシャルワークである。

※心とこころの表記の違いについては、池埜教授の見解をそのまま示したものではなく、ご本人のご厚意により記者の判断で記述しております。みなさんは、心とこころについて、どのように考えますか。

(山須田優)

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