震災の被害と学生支援
1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神淡路大震災で、関西学院大学は甚大な被害を受けた。「阪神・淡路大震災 関西学院報告書」によると、在学生15人、理事1人、教職員7人が死亡。建物の倒壊こそ免れたものの、理学部研究室の出火、中学部矢内会館と心理学研究館の半壊など、被害総額10億3000万円の打撃を受けた。
関西学院は、震災の被害により生活が困難な520人の学生や生徒に対し、年間の学費を全て免除。経済的に困窮した学生には30万円を限度に無利子で貸し付ける給付金を与えた。
心のケアとしてのボランティア
当時の神学部教授で、現在は名誉教授で学院史編纂室顧問の神田健次教授は震災後、学生と教職員の有志で結成した「教授ボランティア委員会」で、復興へボランティアに取り組んだ。
「ボランティアはイマジネーションだ」
同委員会は約2500人の学生が参加し「関学は復興にむけた重要な拠点」となっていた。95年は阪神淡路大震災からの復興でボランティアが広がった事から「ボランティア元年」とも呼ばれる。現在でこそ学生は当然のように取り組むボランティアだが、当時はその機運が高まった時期だった。
「ボランティアの最初の段階は、仮設トイレ作ったり炊き出したりとかハード面。ある程度落ち着いたら、子供たちなどの心のケアをするソフト面がある」。子供たちとキャンプ場などで一緒に遊び、被災のトラウマが深まらないようにした。
神田教授は「心のケア」という言葉を繰り返す。コーヒーが好きだった事から、「出前喫茶シャローム」と題して、避難所で生活する人に学生たちとコーヒーを無料で届けた。
「シャローム」はヘブライ語で心の平穏を意味する。「無味乾燥な雰囲気」だった避難所でコーヒーを淹れると豆の香りが広がり、匂いにつられて人だかりができる。温かいコーヒーを飲み「生き返ったようだ」と話し、避難所で暮らす人々が今後への思いを吐き出す。不安定な生活が続く中で、平穏を取り戻す時間だった。
大学が運営する三田市の千刈キャンプ場への日帰りツアーも行った。浴場の無い避難所も多く、キャンプ場で温泉に浸かる事で人々を癒し「天国だ」と話す人もいた。ツアーでは、吉本興業の芸人や落語家が登場した。「元々家が斜めだったが、この地震で真っ直ぐに戻った」と人々を笑わせた。
「りんご娘」の取り組みもある。青森県から送られてきたリンゴを女子学生が高齢者の住む家に持っていく。「リンゴの皮をむいてほしい」と言ってむいてもらい、その間に生まれる会話を楽しむ。どういう姿勢や言葉使いをするのか事前に大学の関係者が学生に指導して出向かった。高齢者の家に若者が出向くことで、高齢者の孤立を防ごうとした。
行政の支援では抜け落ちる細かい支援もあった。支援物資の送り先の偏りが生じていた。その状況から、学生が主導して支援物資センターを作り、物資を広く行き渡らせた。「学生の想像力には驚かされた」と振り返る。
思いやりの雰囲気 未来にも
震災は多くの学生の生き方を変えた。「生と死が表裏している。なぜ自分ではなくあの人だったのか、生き残った後ろめたさを抱えている学生もいた」。ボランティアの中心を担った学生は、生き埋めになった被災者を目の当たりにした。社会福祉を勉強するために進路を変更したり留学したりする学生もいた。
学生以外にも様々な立場の人が自分にできることはないかと支援の輪が広がった。サックス奏者の渡辺貞夫さんが高中部礼拝堂で開いたジャズフェスティバルは超満員の盛況だった。東京のコンピューター会社の会社員はコンピューターを大学に送り、支援物資や避難所の情報管理に役立った。
「相手が何を欲しているのか考えていて、ちょっとした気付きやつながりがあった」当時の他者を思いやる雰囲気と現在の違いに不安を漏らす。「私もする時があるが、電車に入ると皆が下を向いてスマホを眺めていている。無関心さに恐怖感を覚える」
神田教授は「関学生は関学の風を吸っている」と話し、キャンパスの多様性の重要性を語る。「(西宮上ケ原キャンパスの)中央芝生では、学生以外にも近くの幼稚園児や小学生が鬼ごっこをしたりサッカーをしていたりと、様々な立場の人がいる。こんな場所は会社ではありえない」
関西学院のスクールモットーは奉仕のための練達を意味する「マスタリー・フォア・サービス」。同窓会などで会う卒業生には、スクールモットーが人生の指針になる言葉だと話す人も多いという。「災害時は優しい思いやりがあった時代だったが、日常に戻ると元に戻ってしまう。経験は継承されていかないといけない」 (林昂汰)
※本記事は関西学院大学の2023年度卒業式で配布した紙面に掲載したものです。