学生會時報時代(創刊期)
1922年(大正11年)
原田の森キャンパス(現王子公園)時代に学生会委員によりタブロイド版『関西学院学生會時報』が創刊、その『時報』は関西学院で最初の学生の純粋な言論機関となる。


1924年(大正13年)
『関西学院時報』に改称
1925年(大正14年)
出版部として創部
関西学院新聞として(戦前期)
1926年(大正15年・昭和元年)
第21号より『関西学院新聞』と改称
第23号より新聞紙大の大きさに変更
1927年(昭和2年)
部名称が出版部に変更
1929年(昭和4年)
関西学院が原田の森(現:王子公園)より上ケ原に移転


1932年(昭和7年)
関西学院が大学に昇格
関西学院の大学昇格を祝い「関西学院大学昇格祝賀号」を発行
当時の価格で20銭(現在の価値で200円程度)
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1934年(昭和9年)
新聞発行が創刊第100号を達成。記念特集号を発行
「法文学部」が開設
「商経済学部」が開設
戦争と休刊(戦中期)
1941年(昭和16年)
真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が始まる
学生会が解散し報国団・報国隊が結成されるとともに報国団総務部編輯科新聞班に改組を余儀なくされる。

1943年(昭和18年)
「現情勢下に於ける国政運営要綱」(閣議決定)により、学生の卒業までの徴兵猶予が停止、10月に在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布。学生の大部分は徴兵検査を受け、「学徒出陣」として12月に陸軍または海軍の部隊に入隊、入団。
戦争の激化による学徒動員体制の確立により第201号「学徒出陣特集号」をもって休刊
「神学部」が閉鎖、同じ場所に「日本西部神学校」が開設
復活と学生新聞の広がり(戦後期)
1945年(昭和20年)
玉音放送により終戦を迎える
学生会が復活、部名称を出版総部として再起
壁新聞、ガリ版刷り新聞を発行
1946年(昭和21年)
復刊第1号(202号)を平判全紙大で発行
「法文学部」が廃止。「文学部」と「法学部」が開設
「商経済学部」が「経済学部」に名称変更

現代語訳:復刊に当たって
祖国は敗れた。私たちの母国は今、完全な敗戦の中から、恒久的な平和国家の建設を目指して、新しく生まれ変わる道を歩み始めている。
食糧難、悪性インフレ、失業……。歴史の転換期という過酷な現実の中で、永遠の平和国家へと至る道のりは困難を極めている。物質的には極めて貧しく、思想的にも混乱の極みにあり、社会の至る所に暗黒時代の名残が見られる。
このような時、私たち若者に課せられた使命は実に大きく、死ぬことよりも難しいものかもしれない。「新しい酒は、新しい革袋に入れなければならない」と言うならば、新しい社会は、新しい青年の手によってのみ築かれるものだろう。
祖国再建の道がどれほど辛く険しいものであっても、私たちはその現実の苦難を避けることなく、勇ましく生き抜いていこう。互いにがっちりと肩を組み、何ものも恐れず、何ものにも負けずに進んでいこう。
多くの先輩たちによって築かれたわが学院新聞も、学友会の新しい組織とともに、ここに復刊されることになった。 先輩たちが真理と言論の自由のために続けてきた涙ぐましい闘争や、敬服すべき啓蒙的な活動に思いを馳せるとき、私たちは自らを省みて身が引き締まる思い(恥じ入る思い)がする。しかし私たちは、いかなる時、いかなる場所でも諸君(学生諸兄)と共にあり、この新聞が全学院人の世論と思想を常に反映するものでありたい。そして、諸君の生活の源泉となることを願ってやまない。
若者の、青春の情熱と力をもって、共にこの重大な歴史的使命を果たせる喜びを、高らかに誇ろうではないか。
1947年(昭和22年)
部名称を新聞部に変更
1948年(昭和23年)
旧「神学部」が「文学部神学科」として復活
1951年(昭和26年)
部名称を新聞総部に変更
「経済学部」から「商業学科」が分離、「商学部」となる
1952年(昭和27年)
「文学部神学科」から「神学部」となり独立
1960年(昭和35年)
「社会学部」が開設
1961年(昭和36年)
関西学院大学で初の理系学部「理学部」が開設


1965年(昭和40年)
新聞発行が創刊第500号を達成。記念特集号を発行

現代語訳:変革者としての新聞を
-500号という節目を迎えて-
本紙は、大正11年(1922年)に「学生会時報」として創刊されて以来、43年目を迎え、ここに第500号という記念すべき数字を刻むことになりました。 この500号に至る歴史には、創設者である河上丈太郎先生や故大石学長をはじめとする先人の努力、そしてそれを受け継ぎ育ててきた学院生や関係者の多大なる支援があったことは言うまでもありません。 この長い歴史の中に一貫して流れている「正義と真実の追求」という編集方針は、今後も変わることのない、私たちの根本的な理念です。それは、新聞発行という使命のもとに、常に学生たちの活動の場であり続け、正当な批判活動と新しいものを生み出す創造活動を一体化させ、権力による支配に抵抗し続けるという精神でもあります。
-厳しい社会情勢への危機感-
かつて進行した帝国主義の前に、国民の基本的人権が踏みにじられ、学生たちが戦場へ送り出された時代がありました。全国の大学新聞が次々と廃刊に追い込まれる中、最後まで発行を続けようとした先輩たちの輝かしい歴史が、当時の苦難を物語っています。
こうした伝統の中で500号を迎えたとはいえ、今の私たちを取り巻く状況は、決して手放しで祝えるようなものではありません。むしろ、ますます深刻化する政治情勢を前に、より一層、自らの使命の重大さを再認識すべき時です。 本紙でもたびたび取り上げている通り、教育や文化の面にまで入り込んできた体制側のイデオロギー攻撃、安保条約の強行といった過去の事実を踏まえ、さらに日韓条約の批准や、数年後の新安保条約の再改定、独占資本の要求に支えられた反動的な動きが強まっています。これらを象徴するのが、平和憲法の形骸化(中身を失わせること)や憲法改正への露骨な動きです。主権在民、戦争の放棄、基本的人権という「平和憲法の三本の柱」が根底から揺さぶられ、再び忌まわしい暗黒政治へと国民を駆り立てようとしている事態に他なりません。
-学生新聞の果たすべき役割-
このような状況で、私たちがなすべきことは、学生一人ひとりが自らの置かれている立場を明確に認識することから始まります。 「中立」という偽りの名のもとに、無責任で内容の薄い情報を垂れ流す商業化されたマスコミは、大衆を無思考で現状に満足する人間へと作り替えてしまっています。しかし、大学という明確な「知」の場にいる私たちは、そうであってはなりません。 学生新聞は、決して「中立」などではなく、明らかに学生の意見を反映し、常に現状を鋭く批判し、変革への具体的なイメージを提示する存在でなければなりません。それは、体制側から押し付けられる様々なニュースを科学的に分析し、学内活動と結びつけ、単なる「学内主義(学内だけの問題に閉じこもること)」に終わるのではなく、内側から外の世界へと問いかけ続けることを意味します。
-未来への決意-
新聞はまさに、学生の手で作り上げるものであり、その紙面は学院生活に密着し、より創造的な闘争の場として存在すべきです。それは単に「新聞という読み物」として評価されるのではなく、次の行動へのステップとならなければなりません。
私たちは今、500号を迎え、これまでの活動を振り返りつつ、社会の動きを厳密に分析し、より多くの学生とともに「平和と民主主義」という大きな目標に向かって活動を続けていく決意です。 自由な批判活動のないところに、正しい運動は発展しません。私たちは「真理の探究」を通じて歴史の変革者となり、体制への「くさび」として、この500号を次なる活動の出発点とすることを宣言します。
1966年(昭和41年)
関西学院大学が多紀郡篠山町旧兵庫県立兵庫農科大学(現神戸大学農学部)跡地にどのような新学部を設置するのが妥当かを検討する「篠山問題研究委員会(委員長:古武弥正学長)」が設置。

学生紛争と関学新聞(大学紛争期)
1967年(昭和42年)
新聞総部記者が「学院首脳陣が43年からの学費値上げを決意している」と号外で報じる
各学部自治会代表で構成された全学学費対策委員会は前述の号外で学院に反発
全学共闘会議結成を機に関学大で学生闘争が始まる
1968年(昭和43年)
1967年度卒業式当日に学院本部が全共闘によって封鎖、機動隊が投入される。大学紛争が激化
1969年(昭和44年)
第五別館が全共闘によって封鎖
大学紛争に非暴力で対抗する目的で体育会有志を中心に「関学革新評議会」が誕生
関西学院発祥の地、神戸の王子公園陸上競技場で開催された改革結集大会で約300名の全共闘学生が会場に乱入、これを機に学生・教職員からの非難が大きくなり、関学大の全共闘は解体に追い込まれる
政治色からの変革とノンポリ的な新聞に
1970年(昭和45年)
日本万国博覧会(1970年大阪万博)が開催
1978年(昭和53年)
第2学生会館が火災で焼失
硬式野球・サッカー・陸上競技・ラグビー・スキー競技・スケート・山岳・軟式庭球・ヨット・バレーボール・バスケット・アメリカンフットボール・ハンドボール・ボート・軟式野球・陸上ホッケー・柔道の体育会傘下17部と、写真・ESS・映画・オーケストラ・生花・マンドリンの文化総部傘下6団体の計23団体が被害に遭う

学生に寄り添った文化的な大学新聞へ
1992年(平成4年)
第683号より紙面を刷新、『関西学院大学新聞』と改称。「学生に読まれる」大学新聞を目指す。
1995年(平成7年)
阪神・淡路大震災の発生
学院の被害と関学生の活躍を報じる
神戸三田キャンパス(KSC)の開設
「総合政策学部」の開設


2001年(平成13年)
「理学部」が神戸三田キャンパスに移転
2002年(平成14年)
「理学部」が「理工学部」に変更
2009年(平成21年)
公式ホームページ(初代)を開設
学校法人関西学院と学校法人聖和大学が法人が法人合併
「西宮聖和キャンパス」の誕生、「教育学部」の誕生、「聖和大学聖和短期大学」が「学校法人関西学院聖和短期大学」に変更、「聖和大学附属聖和幼稚園」が「学校法人関西学院聖和幼稚園」に園名を変更。
学校法人関西学院が存続し学校法人千里国際学園が解散することを前提する「合併契約」を締結、同年7月文部科学省に合併認可申請を行い、12月認可された。



2010年(平成22年)
「国際学部」が開設
千里国際学園の校地(大阪府箕面市)は関西学院7番目のキャンパスとして「千里国際キャンパス」となった
2014年(平成26年)
公式Twitter(現:X)アカウント「@KG_shinbun」運用開始
2016年(平成28年)
「聖和幼稚園」が「関西学院幼稚園」に園名を変更
2018年(平成30年)
新歓を目的に公式Twitter(現:X)アカウント「@KG_press」運用開始
本格的で学生に読まれる新聞へ(現代史)
2019年(平成31年・令和元年)
ホームページを刷新(2代)を開設
公式Instagramアカウント「@kg_newspaper_club」運用開始

2020年(令和2年)
学生活動支援機構による感染症対策のための課外活動自粛要請により活動制限
2021年(令和3年)
紙面を全面カラー化
「理工学部」が「理学部」、「工学部」、「生命環境学部」、「建築学部」に再編
2022年(令和4年)
関西学院大学創部100周年
部員募集ポスターを100周年仕様に刷新
YouTube公式チャンネル開設
2023年(令和5年)
新歓を目的に公式Instagramアカウント「@kg_press」運用開始
2024年(令和6年)
「聖和短期大学」が男女共学化及び「関西学院短期大学」に名称を変更
2025年(令和7年)
2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)開催
リアルタイム投稿を目的に公式Xアカウント「@KG_realtime」運用開始
KSCの報道強化を目的に公式Xアカウント「@KG_sanda」運用開始
リアルタイム投稿を目的に公式Instagramアカウント「@kg_realtime」運用開始
KSCの報道強化を目的に公式Instagramアカウント「@kg_sanda」運用開始
threadsアカウント「@kg_newspaper_club」を開設

2026年(令和8年)
関西学院大学新聞(関西学院新聞)正式創刊100周年
ホームページを刷新
これまでの新聞紙面を読む
関西学院学生曾時報(関西学院大学図書館デジタルアーカイブ)
学生曾時報(関西学院大学図書館デジタルアーカイブ)
関西学院時報(関西学院大学図書館デジタルアーカイブ)
関西学院新聞(関西学院大学図書館デジタルアーカイブ)
関西学院大学新聞(755号まで)(関西学院大学図書館デジタルアーカイブ)
関西学院大学新聞(756号以降)(関西学院大学新聞ホームページ)