素直に訳すると「きしむ門は長持ちする」といったところ。病気もなく健康な人よりも、一つくらい持病がある方が健康に気を配り、かえって長生きをするという英語のことわざだ。同義の四字熟語に一病息災があるが、こうストレートな表現は好きになれない。
身体が満足に機能していると、そのありがたみを忘れがちだ。足の小指を怪我すると、存在感を消していた小指の大切さに気付く。立って歩くのに小指も使っていたのかと。長生きするような人は、存在感を消していようとも、頭の先からつま先まで気を配れているのだろう。私もせめて、年中休まず働く脳みそに身体の組織たち、免疫系に感謝の気持ちを持ちたい。下宿先で転がってばかりの堕落した私の身体の中にも出精な面々がいると思うと恥ずかしい気持ちにさえなる。
このことわざと出会った時、真っ先に思い浮かんだのは関西学院中学部OBで、一昨年105歳で亡くなった医師の日野原重明さんのことだ。早くから予防医学の重要性を説き、成人病と呼ばれた病気の名称を生活習慣病と改めた。身体に気を配る大切さを伝えていた日野原さん、若い頃は闘病や療養を繰り返し、死の淵(ふち)もさまよった。そのような苦境のなか、百寿を過ぎても医師として精力的に活動し、長命な一生を送ったことは有名である。
人間も生き物である以上、不具合の一つや二つ、あって当たり前だ。出来の悪い道具も調整してうまく持たせ、大切に使えば愛着も湧くものだが、私たちの身体も同じなのかもしれない。愛着を持って大切に扱えば長持ちするのは道具も人間の身体も同じだと言われると妙に納得がゆく。
このことわざを、自分の身体に不安がある人は拠り所に、自分の身体に過信のある人は戒めとして常に持っておきたい。私も今日は身体を労わり、身体に優しくしてみよう。野菜を食べて、腹八分目。適度な睡眠に適度な運動。お酒は飲まない。これで身体は私を許してくれるだろうか。