東日本大震災をテーマにした長谷川集平氏の絵本『およぐひと』(解放出版社、2013年)。最初の見開きには、流れに逆らって泳ぐ男性が描かれている。男性は、「うちが あっちなもんですから。 はやく かえりたいのです」と言って、透き通って消えていく。
電車で赤ちゃんを抱いている女性は、「にげるのです。あそこには もう かえれません。このこを できるだけ とおくに つれて いきたいのです」と言いながら、遠ざかって消えていく。
そのような人びとに居合わせた主人公が帰宅すると、主人公の娘は問いかける。「あそこで なにが あったの? パパがいた あそこで」。主人公は、言葉に詰まりながらこう答える。「……ぼくがみたのは いえに かえるひとと とおくに いくひと。ぼくらのように テレビや しんぶんに のらないひとたち」。
そして、娘を抱きしめこう言う。「ごめん。まだ ことばに できそうにない。でも、なるべく はやく はなして あげるよ」。娘は答える。「わかった。まつよ」。
震災に限った話ではない。現代社会は、多くの出来事をわかりやすい「物語」として消費する側面があるように思う。そして、その「物語」からこぼれ落ちる言葉にならない領域を、存在しないものとして切り捨ててはいないだろうか。
語られないものは存在しないものではない。語られない背景には、語るに値しない空虚があるのではない。言葉に表せないほどの経験が、心の震えが、切実さが、沈黙となってあらわれるのだ。
こうした沈黙に対し、周囲が無責任な憶測でその空白を埋めてしまうことは、ときとして一種の暴力になり得る。言葉にならない領域を、そのまま不可侵のものとして尊重する節度が、現代の社会には欠けているように感じる。
私たちは、何も知らない。その人が抱えるものを「物語」として安易に消費せず、「まつよ」と言えるか。そこに、沈黙を含めたその人自身を尊重しようとする誠実さがあらわれるのではないだろうか。
(山須田優)

