「ひきこもり」という言葉が世間において広く使われるようになり、はや四半世紀以上が経とうとしている。ただ、一向に事態の好転の兆しは見えない。
ひきこもりとは、社会的参加を避け、6カ月以上にわたりおおむね家庭にとどまり続けている状態である。内閣府が実施した「こども・若者の意識と生活に関する調査(令和4年度)」によると、15~64歳のいわゆる生産年齢人口では推計146万人、およそ50人に1人がひきこもり状態にある。
特に東アジアにおける若者のひきこもり問題は深刻だ。韓国では近年の調査によって、ひきこもり状態にある若者の実態が可視化され、社会問題となっている。台湾では「繭居族(まゆの中にこもる人々の意)」と呼ばれ、潜在的なひきこもりの若者が問題視されている。
これらの国に共通するのは、日々の生活や社会活動の根底に儒教の精神があることだ。日本において儒教そのものが意識されることは少ないが、親孝行や年配者を敬う考え方は儒教に由来する。儒教の教えが長きにわたり、私たちの常識としての役割を果たし、生活を支えてきたのだ。
しかし、儒教がもたらしたのは決して正の側面ばかりではない。東アジアにおける熾烈な受験戦争や男女格差といった社会の歪みの根底には、儒教的な身分秩序や家父長制的な思考が潜んでいる。
こうした文化的背景は、ひきこもりの問題とも密接に結びついている。儒教文化圏の強固な家族主義のもとでは、世間体や周囲の目を過剰に意識することが多い。このような環境下では、ひきこもり問題に直面した時、問題を恥と捉えて家族だけで抱え込んでしまうのだ。こうして外部の支援が届きにくい状況が生まれている。かつて社会を支えたはずの「常識」が、今や当事者やその家族の首を絞めているのだ。
戦後から現在にかけて、社会構造や家族の在り方は目まぐるしく変化してきた。だが、常識はどうだろうか。私たちの常識が、社会の変化に置いていかれているのではないか。ひきこもり問題の解決に必要なのは、当事者への働きかけだけではない。私たち自身が、長年当たり前とされてきた価値観を見直すことが求められている。

